株式会社Ashirase(東京都千代田区内神田 代表取締役CEO 千野 歩)は、靴に装着する振動ナビゲーションデバイス「あしらせ」を開発・提供するスタートアップである。
2021年4月に本田技研工業の新規事業創出プログラム「IGNITION」発の第1号スタートアップとして設立され、現在は「あしらせ2」の開発・販売に加え、歩行を支える情報環境そのものの整備へと射程を広げている。
本記事は、株式会社Ashirase 代表取締役CEO・千野氏への取材をもとに構成したものである。
ただし、この会社を「視覚障がい者向け歩行支援デバイスの会社」とだけ表現すると、見えてくる像は急に小さくなる。
取材を通じて浮かび上がったのは、Ashiraseが解こうとしているのが単なる道案内の不便ではなく、歩行を成立させる情報や環境の不足そのものである、という事実であった。千野氏は自社を「歩行のためのデジタルインフラ」と捉えている。

「歩行支援デバイスの会社」と呼ぶだけでは、Ashiraseを説明しきれない
Ashiraseの表層にあるのは、スマートフォンと連携し、足元への振動で進行方向を伝えるデバイスである。音声や画面に頼りすぎず、聴覚や白杖操作を妨げないことを重視した設計は、公式にも一貫して示されている。
しかし、取材で千野氏が語ったのは、製品の説明よりも、むしろ社会の側にある欠落についてであった。障害福祉分野には「情報の非対称性」があり、当事者でなければ困りごとが見えにくい。
その結果、必要な配慮や支援は制度や既存インフラに委ねられがちで、実際の移動のしづらさは個人の工夫や我慢に押し戻される。
そうした構造に対し、デジタルを使って歩行の成立条件を補い、今あるハードインフラも生かしながら社会に組み込んでいく。それが、千野氏のいう「歩行のためのデジタルインフラ」である。
ここで問われているのは、Ashiraseが何を売っている会社か、ではない。
Ashiraseが、社会のどこを作り替えようとしているのか、である。
Ashiraseが見ているのは“道順”ではなく、“安心して一人で移動できる状態”である
地図アプリや音声ナビは、目的地までの経路を示すという点ではすでに広く普及している。では、なぜなお新しい仕組みが必要なのか。
取材で示された答えは明快である。Ashiraseが解こうとしている本質的な課題は、「目的地まで行けるか」ではなく、「安心して一人で移動できるか」にある。
この差は小さくない。
行けることと、安心して行けることは別である。
視覚障がい者の移動において問題になるのは、到達可能性だけではない。歩行中の不安、判断負荷、安全確認のしづらさ、周囲の状況把握への意識配分といった、移動の途中に立ち上がる複数の負荷が積み重なっている。
目的地へ着くことだけを機能目標にすれば、情報を増やせばよいという発想になりやすい。だが、情報が増えれば増えるほど、安全確認に向けるべき注意が奪われるという逆説も生じる。
取材内容は、この構造を明確に示していた。
だからこそAshiraseは、経路案内の精度だけを競うのではなく、単独移動が心理的にも成立する条件そのものを扱おうとしているのである。
なぜ“振動”なのか。新しいUIではなく、安全を奪わない情報設計だから
Ashiraseの象徴は、靴に装着する振動デバイスという形状にある。だが、その価値を「珍しいUI」や「新しいガジェット」として語ると、本質を外す。
取材で千野氏が語ったのは、振動という手段が新しいからではなく、歩行時の安全確認と両立しやすいからこそ選ばれた、という設計思想である。
音声ナビは情報量が多く、詳細な案内ができる一方で、使う側はその情報に意識を向け続ける必要がある。視覚障がい者にとって、歩行中の聴覚は周囲の音を拾い、安全を確かめるための重要な感覚である。
そこへ音声案内を重ねすぎると、かえって安全確認を阻害するおそれがある。
振動は違う。常に情報を出し続けていても、必要なときにだけ意識を向ければよい。
結果として、利用者はナビを受けながらも歩行そのものの安全に集中しやすくなる。

さらに印象的だったのは、千野氏が「すべてを教える」方向を目指していない点である。システムが使えない状況になったときに何もできなくなるのではなく、利用者自身の安全確認能力を維持し、むしろ高めていくような補助でありたいという考え方が語られた。
支援技術が人の能力を代行し尽くすのではなく、自立を支えるために必要な範囲で補う。この思想は、Ashiraseの設計を特徴づける重要な軸である。
この事業の本質は、個人向けデバイス販売ではなく“歩行インフラ”への移行にある
Ashiraseは現在、「あしらせ2」を販売し、改善を重ねている企業である。2024年10月には量産モデルを発売し、メガネ・コンタクトの井上や日本点字図書館での取り扱いも始まった。資金調達も進み、2025年7月にはシリーズAラウンドのファーストクローズを公表している。
ただし、取材内容と公開情報を重ねると、Ashiraseの事業は個人向けデバイス販売で完結していない。
屋外だけのナビでは、現実の移動は途切れるからである。駅を出た後の地下通路、商業施設の入口、館内導線、オフィスや公共施設の内部。生活上の移動は、屋外と屋内が連続して成り立っている。
外では案内できても、建物に入った瞬間に迷うのであれば、「安心して一人で移動できる状態」は完成しない。取材でも、屋内・施設・環境側への展開が重要な方向として語られていた。
実際、Ashiraseは公開リリースでも屋内外シームレス案内や施設連携へ動いている。商業施設や街区との接続、海外展開を見据えた認知拡大、販売チャネルの整備は、製品そのものの普及だけでなく、歩行を支える環境との接続を強める動きとして読むことができる。
この意味で、AshiraseをBtoCの歩行ガジェット企業とみなすと構造を取り違える。
個人向けプロダクトは入口であり、事業の本質はその先にある。
目指しているのは、技術を作ること自体ではなく、移動が途切れない環境を成立させることである。
最も移動しにくい人を起点に、社会の標準を作り替えられるか
Ashiraseの対象は、一見すると限定的に映る。視覚障がい者向けという時点で、ニッチなプロダクトだと受け取る向きもあるだろう。しかし、その見方では、この事業が持つ射程は見えてこない。
取材を通じて浮かんだのは、Ashiraseが「少数者向けの特殊機器」を作っているのではなく、最も移動困難の大きい人を起点に、環境側の標準を更新しようとしているという構図である。
これは理念としてのユニバーサルデザインにとどまらない。歩行を成立させる情報の不足をデジタルで補い、ハードインフラと組み合わせ、屋内外にまたがる移動導線へ広げていく。
そうして整えられた基盤は、将来的に視覚障がい者だけでなく、高齢者、初めて訪れる場所で迷いやすい人、複雑な屋内空間で方向感覚を失いやすい人などにも接続しうる。

千野氏が「障害」という言葉だけで自社を閉じない表現を模索していたことも、その射程の広さを物語る。
ニッチに見えるテーマの背後に、都市全体へ伸びる論点がある。
Ashiraseの事業が持つ面白さは、そこにある。
Ashiraseの強みは、技術の珍しさではなく、課題設定と実装の一貫性にある
Ashiraseの起点には、千野氏の個人的な原体験がある。だが、その原体験は感情的な共感の訴えに留まっていない。
歩行をモビリティとして捉え、技術によってアップデート可能な移動行為と見なし、そこからプロダクト、UI、事業展開へと接続している。
取材内容を見るかぎり、この会社の強みは個別技術の目新しさより、課題の置き方と解き方が一貫している点にある。
課題設定は、「不便を減らす」ではなく「安心して単独移動できるか」にある。
その課題に対して、振動というUIが認知負荷と安全の両面から合理的に選ばれている。
さらに、個人向け製品で終わらず、屋内・施設・環境側へと事業の射程を伸ばしている。
加えて、公式情報からは販売展開や資金調達、海外展開準備といった現実的な実装努力も確認できる。
本田技研工業の新規事業創出プログラム発という出自も、単なる話題性ではない。公開情報上、Honda由来の技術背景と事業開発の系譜は一貫して示されており、それが供給や実装への現実味を補強している。
要するに、Ashiraseの強みはテクノロジー単体ではない。
課題定義、UI、事業展開、信用形成が一本の線でつながっていることにある。
ZEROICHIが今、Ashiraseを取り上げる理由
新製品の紹介や注目スタートアップの列挙だけであれば、Ashiraseを取り上げる理由は弱い。だが、ZEROICHIが見るべきなのは、製品の新しさそのものではなく、社会の変化を先回りして示す構造転換の兆しである。
Ashiraseが扱っているのは、障がい者支援という一領域に見えて、実際には「移動困難を個人の努力に押し付けてきた社会設計」を問い直すテーマである。
その意味で、本件は福祉テックの話に閉じない。
都市、施設、交通、情報設計の未来をどう組み替えるかという、より大きな論点につながっている。しかもAshiraseは、まだ完成したインフラではない。
だからこそ、いま取り上げる意味がある。社会実装が始まりつつある転換点にあるからである。
個人向けデバイスから歩行インフラへと軸足を移しつつあるこの局面は、後から振り返れば、社会の標準更新が始まった初期段階として見える可能性がある。
ZEROICHIにとって重要なのは、プロダクトの珍しさを面白がることではない。
最も移動しにくい人を起点に、社会の標準を更新できるのかという問いを提示できることにある。
Ashiraseは、その問いを理念ではなく実装として語れる数少ないケースである。作ろうとしているのは、良いデバイスではない。歩ける社会の条件そのものである。
企業概要
企業名: 株式会社Ashirase(アシラセ)
代表者: 代表取締役CEO 千野 歩
所在地:東京都千代田区内神田1-9-5 SF内神田ビル6階
設立: 2021年4月
資本金:5000万円
事業内容: 歩行ナビゲーションデバイス『あしらせ』の開発、販売、運用
公式:ウェブサイト:https://www.ashirase.com/
引用・参考
- 2024年9月30日:Honda発スタートアップが開発する世界初、靴装着型振動ナビゲーションデバイス「あしらせ」新モデル10月1日より発売開始、ブランドムービーも公開
https://www.ashirase.com/news/20240930 - 2024年10月31日:視覚障がい者向け歩行ナビゲーションデバイス「あしらせ2」、11月5日(火)より「メガネ・コンタクトの井上」での取扱い開始
https://www.ashirase.com/news/release241031 - 2024年11月28日:視覚障がい者向け歩行ナビゲーションデバイス「あしらせ2」、日本点字図書館にて取り扱い開始
https://www.ashirase.com/news/release241128 - 2024年8月27日:Ashirase、フランス・パリに視覚障がい者向け歩行ナビゲーションデバイス「あしらせ」体験ブースを出展
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000024.000080967.html - 2025年7月29日:視覚障害者向け歩行ナビゲーションデバイスを開発・提供するAshirase、シリーズAラウンドファーストクローズにて資金調達を実施
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000035.000080967.html
※本記事は、取材および公開情報をもとに構成している。事実関係や固有情報については、公開情報を参照のうえ確認した。