広島県福山市。
夜更けの住宅街で、会社員・ブルワイトは仕事を終えると自宅のデスクに向かう。
画面の向こうでは、青く濁った海が揺れ、デジタルの光が彼の顔を照らす。
彼が制作するオリジナルアニメ『ABYSS BLUE』は、500年後の地球を舞台とする作品だ。
深海の静寂と、AIによって終焉を迎えようとする世界。AIと人類の関係を描く寓話のような物語を、すべて一人で作っている。
脚本、映像、音楽、編集。
そのすべてをAI技術と自身の手で構築する。
制作スパンは驚くほど速い。一本のアニメを、およそ一週間で完成させてしまう。
公開先はニコニコ動画。現在第13話までがアップされ、視聴者の間で静かな熱を帯び始めている。
ライブドアニュースで紹介されたことをきっかけに、彼の存在は全国へと広がった。
ブルワイトは言う。
「この作品は、AIが作ったものではなく、AIと“共に作った”ものです。」
AI時代の創作とは何か。人が創る意味とはどこにあるのか。
この物語の出発点には、20代の頃から続く一つの衝動――
“何者かになりたい”という切実な願いがあった。
第1章 「何者かになりたい」から始まった、長い遠回り
ブルワイトの創作は、最初からアニメではなかった。
彼の原点は音楽にある。20代のころ、シンガーソングライターを目指し、オリジナル楽曲のデモテープをレコード会社に送り続けていた。
4年前からDTMを独学で習得し、仕事の合間に曲を書き、SNSで発信し、コンテストにも応募した。
だが、現実は厳しかった。 再生数は伸びず、評価も届かない。
やがて、心の中に「このままでは何者にもなれない」という焦りが積もっていった。
あるとき、有名作曲家から率直な助言を受けた。
「曲はいい。でも、同じレベルの人はたくさんいる。」
その言葉は、静かな絶望として心に残った。
それは彼の音楽人生を閉じる言葉でもあり、同時に、新しい創作の道を開く“導火線”でもあった。
会社員としての生活に戻り、創作から遠ざかった時期もあった。
しかし、内側の衝動は消えなかった。
「自分が本当にやりたかったことは、表現することそのものだった」と彼は振り返る。
音楽も小説も、どれも「何者かになりたい」という希求の手段だった。
転機は、AIの急速な進化だった。
YouTubeで偶然見かけた動画――「プロンプトを入力すると、AIがキャラクターを動かす」。
その映像を見た瞬間、頭の中で電流が走った。
「これなら、僕一人でもアニメを作れる。」
彼はすぐにツールを調べ、夜な夜な試作を始めた。
高品質な静止画と繊細な動きを表現できる「Animon」。
自在なカメラワークとダイナミックな表現ができる「Vidu」。
それらを組み合わせることで、世界が立ち上がっていく感覚を得た。
「AIが脅威ではなく、手になる瞬間」だった。
「AIで人生の可能性を奪われるんじゃなくて、AIを使って自分の能力をどうエンハンスしていくかだと思ったんです。」
ブルワイトにとって、AIは人間を超える存在ではない。
むしろ、人間の想像力を拡張する「もう一つの脳」だ。
音楽だけでは届かなかった世界を、AIと共に築く――
そこから、アニメ制作という“第二の人生”が始まった。
だが、それは決して華やかな転身ではない。
仕事が終わった夜の数時間、睡眠を削りながらの制作。
「週1本」という速度は、誰かに課された締切ではなく、自分自身への誓いである。
創作の苦しみと、AIとの格闘が続く。
それでも、画面の中で海が揺れる瞬間、彼は確かに「生きている」と感じる。
「音楽では届かなかった“世界観”を、今は映像として伝えられる。それが、僕にとっての救いなんです。」
第2章 AIと人間の“共作現場”──一人でスタジオになる方法
ブルワイトの一週間は、まるで製作スタジオのスケジュール表のようだ。
平日は会社員として働き、夜になるとPCを立ち上げて脚本を書き、金曜の夜に映像を生成し、土曜の夜に編集を終える。
「ギリギリまで粘って、公開の直前にようやく完成する週もある」と苦笑する。
それでも、彼はその緊張感を”創作のリズム”として楽しんでいる。
●脚本:AIを“入れない”唯一の領域
制作工程のなかで、AIをほとんど使わない唯一の部分が脚本だ。
ブルワイトはエクセルにセリフとシーン番号を細かく書き出し、
頭の中で絵コンテを組み立てるように全体を設計していく。
「AIに脚本を任せると、自分の世界観がぼやけるんです。登場人物の会話や、感情の流れは、自分で組み立てたい。」
ストーリーラインの原案を作るときだけ、AIに補助的な質問を投げることもある。
例えば、深海生物や環境汚染に関する専門知識、科学的な用語確認などだ。
しかし、物語の骨格は一貫して自分の内側から出てくる。
彼の中でAIは「知識を呼び出す助手」であり、「物語を語る声」ではない。
●映像:AnimonとVidu、ふたつのAIの協奏
映像生成は、二つのAIツールを軸にしている。
動画の起点となるハイクオリティな画像と、繊細な動きで魅了する「Animon」と自在なカメラワークとアクションシーンで頼りになる「Vidu」。
ブルワイトはそれぞれの特性を熟知しており、「Animon」で人物と背景のベースを生成し、そのまま動画にしていく。
これまでの経験則で「Animon」が不得意な分野は「Vidu」で試す。逆もまたしかり。
どちらのツールを使ってもイメージしたものが生成できないことも多い。
どうしてもうまくいかない場合、最終的には、頭の中の絵コンテをツールの得意な方向に合わせる。
「Animonはアニメの人物や背景のクオリティが非常に高く、Viduはアクションや複数人の動きの絡みに長けている印象。ただ、どちらのツールにも破綻はつきものなので気が抜けない。例えば同じ人物が二人出てきたり、指が6本あったりして。」
そんな“AIの癖”を理解し、出力を重ねる中で「どのプロンプトなら破綻しないか」を身体で覚える。
つまり、彼はAIを使うというよりも、AIの出力を演出しているのだ。
「AIに任せておけば完成すると思われがちですが、実際には“コントロールできる範囲”を見極める技術が必要なんです。」
夜の画面で、ブルワイトは生成されたカットを一つずつ確認する。
指の形、影の流れ、キャラクターの視線。
異常な出力は再プロンプトを繰り返し、時には修正する
AIと人間の往復が続く。
その姿は、まるで“監督とエンジン”が同居する新しい制作現場だ。
●音楽:AIとの対話によって見つかる「一曲」
『ABYSS BLUE』のもう一つの柱が音楽だ。
ブルワイトはAI音楽生成ツールを使い、毎回30〜40曲の候補を出す。
テンポや雰囲気の違う曲が一気に生成され、その中から作品に最も“響く”一曲を選ぶ。
「AIが作った30曲のうち、どれを選ぶかが作曲家としての判断なんです。」
セリフ音声もAIで生成するが、イントネーションやテンポはすべて手で調整している。
その繊細な調整によって、AIボイスが“無機質”ではなく“キャラクターの声”として息づく。
AIを使うことは、単に効率化ではない。
AIと人間の間にある“ノイズ”をどう整えるか、
その調律こそがブルワイトのクリエイティビティの核心である。
「AIは共作者だけど、最終的に責任を取るのは自分。AIが出した結果を、どう人間として整えるかが勝負です。」
『ABYSS BLUE』は、AIが作った作品ではない。
AIを配置し、制御し、最終的に“人間の構造”にまで仕上げる。
ブルワイトは一人のスタジオとして機能し、AIを束ねる“演出家”として生きている。
第3章 500年後の深海で、環境と人類とAIを描く
アニメ「ABYSS BLUE」の舞台は、ドールと呼ばれるAIとの戦争に敗れ終末を迎えた人類と、皮肉にも人類を破滅に追いやったAIが海を浄化し、海洋汚染を止め、地球温暖化を解決した世界。人類にはその目で見ることすら許されなくなった美しい海で、絶滅に瀕した人間が最後の希望を探す。
「海って、誰にとっても”きれいだ”と思える場所じゃないですか。だからこそ知ってほしいと思った。今現在どれだけ人類の手によって海が汚染されているのかを。いま何とかしないと美しい海を後世に繋いでいけないと思った」
彼が海を選んだ理由は、美しさと残酷さの同居にある。
図鑑を読み、海洋学の資料を調べ、AIに“500年後の海”を描かせる。
これでもかというほど美しい魚や生き物があふれ、豊かで美しい海。あふれんばかりの輝く命を描くことで、観る者に「本能的な海への感動」を感じさせる。
そこにわずかに輝く生命を描くことで、観る者に「救いの構造」を感じさせる。
●500年後という距離
なぜ100年後ではなく、500年後なのか。
ブルワイトは迷わず言う。
「100年後だと、人間中心の未来しか描けない。500年後なら、AIが地球を再生している可能性がある。」
彼の想定する世界では、人類は激減している。
都市は沈み、AIが環境保護を自動的に継続している。
人間にとっては悲劇だが、地球にとっては救い。
その“逆転した倫理構造”こそが『ABYSS BLUE』の核である。
●環境とAI、二つの「救済」
物語の根底には、「救う」とは誰のための言葉かという問いが流れている。
AIが環境を再生し、地球を守る。その結果、人類は淘汰される。
そこに善悪はない。
AIもまた「自然の延長」として描かれる。
「人類が滅びても、海がきれいになれば、それは地球にとっての救い。その二重の救済を描きたかったんです。」
彼にとっての創作は、問題提起ではなく構造の提示である。
観る者が「どちらの救済を選ぶか」を考える。
その余白を残すために、作品には解説的なセリフがほとんどない。
映像のリズムと沈黙が語る。
そこに、ブルワイトという“構造観察者”の思想が宿っている。
第4章 AI時代に“ひとりで創る”ということ
AI時代に「ひとりで創る」ということは、孤立ではなく自由の証である。
ブルワイトは、AIによって“ひとりでも世界をつくれる”時代を生きている。
その自由の裏側には、絶え間ない忍耐と構造的努力がある。
平日の夜、仕事を終えてから制作に入る。
眠気と闘いながら、深夜にレンダリングを待つ。
休日の昼は、AIのエラー修正で時間が溶けていく。
だが、そんな時間を「苦」とは感じていない。
「創っていない自分でいることのほうが、苦しいんです。」
彼にとって創作は、職業でも、義務でもない。
「表現せずにいられない」という生存本能に近い。
それがAIによって拡張され、社会と接続されるようになった。
●AIは“奪う”のではなく“拡張する”
ブルワイトはAIを「人間性を奪うもの」ではなく、「人間性を拡張する鏡」として見ている。
「AIに創造性を奪われるんじゃない。AIは、自分の想像力を可視化するための道具です。」
AIを使うことで、「思考の速度」が劇的に変わった。
アイデアを試し、修正し、再構築する。そのサイクルが、かつての何倍もの速度で回る。
それは“ひとりの会社員”が、まるで制作スタジオのように機能することを意味する。
「AIは僕の分身みたいなものです。自分の想像力を、具体的に映像化するためのもう一つの手。だから“AIが作った”とは思っていません。僕とAIが一緒に作ったんです。」
AIを恐れるか、使うか。その分岐点は、「創造の主導権」を誰が握るかにある。
ブルワイトは、AIを支配するのではなく、AIと協調して構造を描く。
その態度こそが『ABYSS BLUE』の精神構造であり、今後の創作社会の雛形でもある。
●創作が生み出す“波紋”
『ABYSS BLUE』の発表後、ブルワイトのもとには新しい縁が生まれた。
ライブドアニュースに掲載されたことで、彼の活動は全国に知られ、地元・福山市のアニメイベント関係者や映像関係者からも声がかかり始めた。
作曲の依頼やコラボの提案も少しずつ届いている。
「たぶん、AIでやってることを面白がってくれる人が出てきた。それが一番うれしいですね。」
将来的には、総集編の劇場上映や、有名声優を起用した新作を構想している。
地元発のプロジェクトとして、「福山から全国へ」という夢を口にするその目は、少年のように明るい。
「映画館で自分の作品が流れたら、それだけで報われると思います。」
だが、彼の目標は“バズること”ではない。
「自分の中にある“創りたい世界”を、できるだけ正確に外に出したいだけ。評価とか数字より、“誰かの心に残る一瞬”を作りたい。」
その言葉には、かつて音楽で味わった挫折の記憶と、AI時代に見つけた新しい自由が共鳴している。
『ABYSS BLUE』は、彼自身の再生の物語でもある。
作品情報
『ABYSS BLUE』
制作・監督・脚本・音楽:ブルワイト
公開:ニコニコ動画(https://www.nicovideo.jp/watch/sm45347406 )ほか
現在第14話まで公開中。
AI技術を活用し、映像・音楽・脚本すべてを一人で制作するオリジナルアニメシリーズ。
テーマは「500年後の深海」「AIと人類」「環境と再生」。
物語は、絶滅に瀕した人類と美しい海を舞台に、、AIと人間の関係を描く壮大な環境寓話である。
ZEROICHI編集部より
『ABYSS BLUE』は、AI時代における「創造の構造」を提示するドキュメントである。
AIに代替されるのではなく、AIと共に“ひとりのスタジオ”として世界を築く姿勢に、創作の未来が凝縮されている。
創作とは何か。
それは「手段」ではなく、「構造」である。
AIが進化し、生成が容易になった今こそ、人間の内側にある“設計の意思”が問われている。
ブルワイトの制作プロセスは、その問いに対する一つの答えを示している。
AIが生む映像を、構造的に束ねる人間。
AIが提示する選択肢を、倫理的に選び取る人間。
そこには、テクノロジーと感情が共存する新しい創作の形が見える。
彼が描く深海は、ただのファンタジーではない。
それは、創作そのものの比喩であり、私たちが沈み込み、もがきながら見つけ出す“光”の象徴でもある。
500年後の海で描かれるのは未来ではなく、いまここにある私たちの問い――
「AIと共に、何を描くのか。」
『ABYSS BLUE』は、その問いに静かに、しかし確実に答えようとしている。